
今回は、織田信長の生涯を紹介します。本能寺の変で亡くなるまでの人生はどんな感じやったんかな?
戦国時代が舞台の大河ドラマでは主人公や重要な役で出てくることの多い人物、織田信長
- 織田信長の人物像。どんな人やったん?
- 生涯を年表で紹介! 本能寺で命を落とすまでの人生は?
- 性格や(人柄)エピソード ほんまに恐ろし人物やったんかな?
- 子孫・家系図を調査。 有名な子孫も!
など、簡単に紹介していきます。
織田信長 肖像画

重要文化財、愛知県・長興寺蔵
作者は狩野永徳の弟、狩野宗秀です。この肖像は信長没後まもない1周忌に長興寺に寄進されたもので、織田信長の肖像画の中では、一番有名。だと思います。
織田信長の人物像
織田信長は、織田信秀の嫡男として生を受けました。
しかし次男である信勝(信行)と違い暴れん坊であったため、母の土田御前は礼儀正しい信勝を可愛がっていました。
信長は幼少時代は変わり者でおおうつけものと呼ばれ、また身分に関係なく民の若者と戯れていました。
でも父親である信秀は信長を大層気に入っておりそれがきっかけで内乱が起こってしまうことに…。
一般に「信行」として知られています。同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」「信成」である。以降、本文では「信勝」で統一してます。 |
父親の死後家督相続のため、弟・信勝と内乱勃発!信勝は信長の実力を甘く見ていたためこの世を去ってしまいます。
改めて家督を継いだ信長は本領発揮といわぬばかりに、今川義元を打ち取り、浅井長政、朝倉義景、武田勝頼と現在の中部地方を中心と本州の大半を占拠! 東の伊達家から西の島津家にも信長の名前が知れ渡るという活躍を見せていました。
特に、浅井・朝倉の協力により姉川の逃走劇では幼少期で培ったノウハウを生かし浅瀬を見つけることにより逃走に成功し、その浅瀬が急に濁流になるという強運にも恵まれていました。
信長は、戦に対してかなり先見の明があり、ポルトガルから仕入れた銃を大量に生産するために、通行税を廃止、更に無駄な役人を撤去するなどマネービジネスを加速させる制度を設けることにより、大名としては大量の鉄砲中を仕入れるという活躍を見せていた。
そして、信長オリジナルの攻撃手段とて3人ローテで、弾転送、着火、放出という3段打ちという攻撃手段を用い、多くの戦国武将達を苦しめました。
またそんな信長も、ジンクスは気にしておりかち栗を戦前に食すことにより、勝負に勝つというガンかけも行うほどの几帳面な一面もあります。
戦ばかり行い、部下を追放、処分などもはや陣がいの域を超えてしまい家臣である明智光秀に目をひかれたことにより、他の家臣がいないことをいいことに信長を本能寺で打ち取るという本能寺の変を起こしますが、
それが起こったのは夜明け前であったため、睡眠不十分の中人間五十年と舞そして天に昇って行ったという、エピソードあふれる戦国武将である。
戦では運も味方につけてのし上がっていったんですね。先見の明があったり奇想天外な行動に出たりと他の戦国武将と一味も二味も違う何かをもっていたんでしょうね。
家督争いとはいえ、実の兄弟を手にかけることになるとは、なんかやるせない気持ちですね。戦国時代ではそんな事は普通だったんでしょうけどね。
生涯を年表で紹介! 本能寺で命を落とすまでの人生は?

次は、年表を使って生涯を簡単に紹介します。
1534年 尾張の国(愛知県)にて、織田信秀の嫡男として生を授かる
生まれたときから気性が激しく、乳母である女性の乳首を噛みちぎるという荒々しさが出てくる、織田家重臣の一人池田恒興と乳母の中でもあり、悪童仲間として仲良くなる。
1549年 斎藤道三の娘、帰蝶(濃姫)と結婚し、織田上総介と改名される。
斎藤家では、上記で上げた池田や前田利家(犬千代)とうつけな行為ばかりしていることが美濃までにも広まっており、本当にうつけ者ならば刺殺しろと命じられ帰蝶に短刀を渡したが、いざ対面してみるとうつけどころか、信長(上総介)に惹かれ恋に落ちました。
また道三も自ら尾張の乗っ取りを狙おうとするが、行列の際は不格好であった信長に対し正装で身を引き締めたことにより、道三も信長を気に入り、信長の名を知らしめたのです。
1551年 信秀の死により、織田家を継ぐ。
父親の葬儀に灰をぶつけたことは有名であるが、家臣の柴田勝家等は不服を抱き一枚岩に亀裂が生じていた、それをおとがめるため手付役の平手政秀が自害することにより信長の決意を改めさせ、
本格的に戦国大名として動き出した、その後も柴田勝家率いる弟信勝との内乱も生じるが、無事勝利したが代償として信勝を失ったのです。
1554年 那古野城主から本拠地を清洲城に移転する。
1559年 2月2日に京の都に初上洛。当時の13代将軍の足利義輝に謁見する。
1560年 桶狭間の戦いにて今川義元に勝利する。
今川義元をおびき寄せるためかなりうつけな行為をすることにより本丸まで追い込ませるという危険な行為を行ったが、
慢心していた今川は桶狭間で陣をとり前祝いで浮かれていたところを信長達が襲撃し武将毛利新助が今川の首を打ち取ったことにより、世間に信長の名を知らしめたのです。
1562年 徳川家と同盟を結ぶ
今川義元の死後、自立した松平こと徳川家康は、人質時代のあった織田と提携を結び証明として中世の近いの紙を灰にしたものを杯に交え飲み交わしました。
1563年 本拠地を清洲城から小牧山城に移転する。
1567年 本拠を岐阜城に移転する。(天下統一を目的に着実に上洛の準備をはじめる)
1568年 足利義昭を奉じて上洛して、将軍職への就任をサポートする。
1570年 姉川の戦いで浅井・朝倉氏を破る。
1571年 比叡山延暦寺を焼き討ち。
歴史的滞在ともいわれる大事件、本願寺とは協力関係を結ぼうとしていたが、1年たっても返事が出ず、しかも延暦寺の住職達の大半は酒や女に現を抜かす外道坊主であったこともあり、無差別殺害を行いました。
1573年 義昭を追放して、室町幕府を滅ぼす。(天下統一に向けて着々と進めていく)
1575年 長篠の戦いで武田家に勝利する
家康も脅威と言われた武田家も武田信玄の死後、嫡男の勝頼に座を譲ったが、実力差が出てしまい武田四天王、別名不死身の鬼美濃という馬場信春を始め3人を打ち取るという大勝利を収めた!
1576年 近江に新たな拠点の安土城を築く。
1577年 手取川(石川県)の戦いで、上杉謙信の軍隊に撃破されてしまいます。
1582年 本能寺にて自害。
諸説では、帰蝶も反旗を起こした明智光秀に戦を起こしたこともあり、お互い道三と縁がある者同士複雑であったといわれている。
またここで、今川を打ち取った新助も参加しているが武功を立てられずここで犬死したとも言われています

49歳で亡くなるまで何度もピンチがあったんやな…
子供の頃は、変わり者といわれていたのに、戦では才能を発揮するなど人ってわからないものですね。
たくさんの家臣に親しまれていたからこそ、天下統一まであと一歩までこれたのに、その家臣の一人明智光秀の謀反により命を落とすとは本人も思っていなかったやろうな。
織田信長が天下統一をしていたら今の日本はどうなってたんでしょうね。
性格(人柄)エピソード
織田信長は、上記でも記したとおり乳母の乳をちぎるという狂暴な性格であったが、非常に甘党であり甲高い声でもあるという想像もつかない人物でもあったようです。
また、海外貿易を積極的に実行しルイス・フロイスが献上した地球儀やマントはこよなく活用し、コンフェイト(金平糖)を初めて食べた時は甘党の信長は大変うれしくなったという話もある。
信長は先見の明のある人物であり、関所の廃止を行い楽市楽座を開くことにより、通行税がなくなり商売繁盛を狙い同時に他国の情報を得るという情報戦略も仕掛けるほどの頭脳派でもあり、
多くの武将は外部からの侵略を防ぐためこのような愚行は行わなかったが、信長率いるならず者集団は中途半端に訓練している兵士より強く、
幼少期から暴れていたので、いざこざを犯すほどの腕っ節の人間ばかり集めていたため力でなぎ倒せるほどの実力がありました。
また、そのようなことも知らず今川義元は兵力の違いを見せつけ、討ち死にしたとも言われています。
ならず者時代では、池田より前田と仲が良く衆道関係を結んでいました。また、それは森蘭丸や、堀秀政等も同様に結んでいました。
恋愛に関しては信長は帰蝶は愛していたものの、本当に愛していたのは吉乃であり、何度か子供を作ったことがあるが、
信長の嫡男である信忠を「奇妙丸」と名付けたりと、子供名前は非常にいい加減なものが多い人物でもあり、特に九男の信貞は人、長次は緑とおおざっぱにもほどがあるネーミングセンスを歴史に残しています。
できる人にはかなり甘かったのでそれが原因で舐められて裏切られることも多かったようですね。
信長が京都へ行き来しているとき、いつも同じ地にいる乞食に気づき、その乞食のために信長は木綿を与え、町の人々に面倒をみるように頼み、皆が感動しました。
また、清洲城を居城としていたある年の夏の盆踊りのときに、信長は天人の仮装をし、小鼓を打ち、女踊りをしたという。
そして津島の年寄たちを身近に召し寄せ、それぞれの者たちと打ち解けて親しく言葉をかけ、炎天下の中で団扇であおいでやったり、「お茶を飲まれよ」とすすめたりしたといい、彼らはみな感涙して帰ったという。
信長の書状や手紙などから、家中の物などにあだ名や仮名をつけていました。
信長がねねへ宛てた手紙からは、信長は秀吉のことを「禿鼠(はげネズミ)」と表現しています。また、明智光秀のことを「きんか頭」と呼んだといい、光秀が禿げていたから、光沢があってつるつるしているきんか(金柑)に例えたみたいですね。
初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたその後、気いって「弥助」と名付けて身近においています。
新しもの好きなので、南蛮渡来のビロードのマントや西洋風の帽子を愛用していました。
世間一般に浸透している信長のイメージは「せっかち」「プライドが高い」「厳格」「残虐」「執念深い」などですが、優しい一面もあったり、気さくな一面もあったりと意外に人間味溢れる人だったんでしょうね。
二面性というかギャップというかそんな所が、また人を引き付けていたのかもしれないですね。
家系図

家系図ってどうなってるんだろう?
男兄弟
- 信広(兄・のぶひろ、?-1574年) 長島一向一揆攻めで討ち死に
- 信勝(弟・のぶかつ、?-1557年?) 最期は仮病を装った信長に呼び出されて謀殺された
- 秀俊(弟・ひでとし、?~1556年) 角田新五郎が謀反を起こし、自殺を余儀なくされた
- 秀孝(弟・ひでたか、1541?-1555年?) 秀孝が従者を伴わずに、龍泉寺城の近くで馬を乗りまわしている様子をみた叔父の織田信次と家中の者らに(秀孝が喜六郎と称していたため気づかなかった)無礼者として殺害された
- 信包(弟・のぶかね、1543-1614年) 出家して「老犬斎」と称し、その後は秀吉御伽衆となっている
- 信治(弟、のぶはる、1545?-1570年?) 宇佐山城を守備する森可成とともに討死を遂げた
- 信興(弟、のぶおき、?-1570年) 小木江城に一揆勢が押し寄せ、無念と覚悟を決めた信興は最期に切腹
- 信照(弟、のぶてる、?-?) 生没年、生母ともに不明であり、事跡はほとんど残されていない
- 秀成(弟、ひでなり、?~1574年)伊勢長島一向一揆征伐で討ち死にした
- 長益(弟、ながます、1547-1621年)千利休から茶道を学び、茶人として名を残した「織田有楽斉」の名で知られる
- 長利(弟、ながとし、?-1582年)本能寺の変で二条御所で信長嫡男の信忠とともに討死
姉妹
- くらの方【大橋重長室】(姉)信長の姉と伝わり、織田家臣の大橋重長に嫁いでいる
- 女子【神保氏張・稲葉貞通室】(姉)時期は不明だが越中守山城主の神保氏張に嫁いだ
- 犬山殿【織田信清室】(姉)信秀二女と伝わる。犬山城主の織田信清に嫁いだ
- 女子【斎藤秀龍室】(?)信秀三女
- 女子【苗木勘太郎室】(?)信秀四女と伝わる
- お市の方【浅井長政・柴田勝家室】(妹)信秀五女と伝わる、有名な浅井三姉妹(茶々・お初・お江)の母である
- 小田井殿【織田信直室】(妹)信秀六女と伝わる。小田井城主の織田信直に嫁いだ
- 女子【織田信成室】(妹)信秀七女
- お犬の方【佐治為興・細川昭元室】(妹)はじめ佐治為興に嫁いでおり、幕府の管領家である細川晴元の嫡男・昭元と再婚
- 女子【津田出雲守室】(妹)信秀九女、津田出雲守室
- 女子【飯尾尚清室】(妹)信秀十女と伝わる。奥田城主の飯尾信宗(尚清とも)に嫁いだ
- 野夫殿【津田元嘉室】(妹)信秀十一女と伝わる。諸史料に津田九郎次郎なる者に嫁いだ
- 小林殿【牧長清室】(妹)信秀十二女と伝わる。尾張小林城主の牧与三右衛門長清に嫁いだ
- 女子【丹羽氏勝継室】丹羽氏勝の継室。生没年・生母・名などは不明
兄弟姉妹だけでもこんなにいてるんですね。昔は正室・側室とあったから兄弟が多くても当たり前やったんでしょうけど凄いですね。
息子
- 織田信忠(長男・嫡男)幼名は奇妙丸
- 北畠信雄(二男、北畠具房養子)幼名は茶筅
- 神戸信孝(三男、神戸具盛養子)幼名は勘八とも伝わるが不詳。通称を三七ないし三七郎。
- 羽柴秀勝(四男、羽柴秀吉養子)幼名は於次あるいは於次丸
- 津田信房(五男、遠山景任・武田信玄養子のち離縁)幼名は御坊丸
- 織田信秀(六男、祖父と同名)幼名は大洞(おほぼら)
- 織田信高(七男)幼名は小洞(こぼら/ごぼう)
- 織田信吉(八男)幼名は長丸
- 織田信貞(九男)幼名は人
- 織田信好(十男)幼名は良好
- 織田長次(十一男)幼名は縁
- 織田信正(庶長子)幼名は於勝丸
娘
- 相応院 – 長女、蒲生氏郷室
- 徳姫(五徳)(見星院) – 二女、松平信康室)
- 秀子、または藤、のちに上野御方(日栄) – 筒井定次室。
- 玉泉院 – 前田利長室。名前や母は明らかでない
- 報恩院 - 丹羽長重室 。
- 振 – 水野忠胤室、佐治一成継室。母は小倉鍋
- 某 – 万里小路充房室
- 三の丸殿 – 豊臣秀吉側室。信忠生母を母とすると言われる
- 月明院 – 徳大寺実久室。信長の末娘であると考えられる
- 足利夫人 – 足利義昭側室。
息子・娘もい沢山いたんですね。子孫もたくさんいてそうですね。
息子達の幼名が珍しのでというか、かわいそうなくらい変わってますね。いまでいうキラキラネーム?それにしても適当な感じが半端ないですね。
まとめ
今回は、織田信長を紹介しました。
甘いもの好きとは初めてしりました。金平糖も好きやったんですね。イメージ通り短気、怖い部分もあり優しい人柄もあり不思議な人やなとふと思いました。
新しいもの好きだったので、信長が本能寺で亡くならなかったら、多くの西洋文化がもっと早く日本に入って来てたかも知れないし、
本能寺の変もいろいろ黒幕説もあるので違う形で暗殺されていたのかもしれないですね。そう考えると歴史って面白いですね。
今回は書いてないですが、黒田官兵衛の息子を信長の命令を無視して竹中半兵衛がかくまっていた話とか有名ですよね。
冷酷無慈悲と言われた織田信長が現在で言えば障害者の人を村人全員で面倒を観るようにと助け、強き立場の人が弱気立場の人を守る事をしていたのはあまり有名な話しではありませんが、現在の令和では強き者が税金を貪り取り、弱気者を助ける所かワクチンを打たせ亡き者にしようとしています。 pic.twitter.com/tAXi365I55
— 光源氏🇯🇵 (@hikaruganji) July 2, 2023