今回は、自分の出身地でもある大阪にある。大阪城の歴史に迫ってみたいと思います。
今も、大阪人に愛される大阪城。
観光の見どころもさることながら、
今回は、歴史を掘り下げていきたいとおもいます。
どんな歴史をたどってきたのでしょうか?
まずこちらから説明しますね。
次は、どうして大坂城から、今の大阪城の字になったのか?
大坂から、大阪になったわけ
はじめになぜ、いまは坂の字ではなく阪になったのか…。
坂の文字は「土に返る」=死を連想する
と縁起が悪いと言う理由で、
盛ん・多いといった意味のある「こざと編」の今の阪という字にかえられたのです。
縁起を担ぐのは今も昔も変わらないんですね。
江戸時代は、「大坂」と書くことが一般的でしたが、すでに「大阪」と書くこともあったそうです。
明治以降は、大阪で統一されるようになりました。
縁起を担ぐのは今も昔も変わらないんですね。昔の方が縁起を担いでたと思うけど阪の字に変わって大阪は良くなったのかな?
石山本願寺
石山本願寺の後に、大坂城が造られました。では、なぜお寺の跡地に城を築く事になったのか、
石山本願寺とは簡単に説明します。
- 正式名 大坂本願寺
- 現在の大阪城本丸の地にあったとされています。
- 本願寺教団の本山になってから発展していきました。
1496年
浄土真宗本願寺派中興の祖といわれる蓮如が大坂に初めにお城を築きました。それが石山本願寺です。
本山・石山本願寺を中心に堀や土手で囲まれた寺内町(集落)でした。
ある時、石山の地を視察した織田信長は、西国攻略の拠点の城を作る重要な場所はここしかないと、
石山本願寺宗主顕如に、この地を明け渡すよう使者をたてました。
信長が出した条件、代わりの土地と十分な運営資金を提供する、しかしこれを拒否して対立します‼
1570年
11年に及ぶ石山合戦のはじまりです。
信長自身も、攻略するのにこんなに時間がかかるとは、思ってなかったはずです。それだけかなり手強い相手だったと言えますね。
11年間に及ぶ合戦の中で、信長包囲網など信長が窮地にたたされる出来事もあったりと、歴史って知れば知るほど面白いですね。
1580年
朝廷による勅命がくだり、信長が講和条約を遵守する事を誓う血判誓紙を差し出して、和睦が成立します。
信長は顕如を本願寺から退去させることに成功しましたが、堂塔伽藍は全焼しました。。
一方の、本願寺は紀州鷺森に移っていきました。
そこまでこだわって手に入れ土地でしたが、信長自身がここに築城することはありませんでした。
1582年6月21日
家臣・明智光秀の謀反により自害します。俗に言う 本能寺の変です。
プチまとめ
大阪城が、出来るまで多くの人が亡くなった出来事もあり、合戦とはいえ何とも言えない…気持ちです。
ドラマや映画では合戦のシーンとかカッコイイし、見せ場ですからね。実際の合戦は生きるか死ぬかの世界ですから平和な時代に生まれ育った自分には、どこか絵空事のようにも感じてしまいます。
でも、信長が本能寺で死ななかったら、歴史はどう変わってたのかな?そう考えると新し物や珍しものが好きな人でしたから日本の近代化ももっと早かったかもしれないですね。
本当にそうなってたら幕末の志士とか歴史上に存在してなかった?歴史のほんの一瞬の出来事でも、いまに繋がっているって考えるとすごい事だと思いました。
ちなみに現在の大阪城は、3代目なんですよね!
豊臣秀吉と1代目大阪城
あれほど、信長がこだわっていた土地。湿原に守られていて天然の要塞があり、淀川と大和川にはさまれていて港があったりお城を立てるには好条件な場所。そこに
信長亡き後、
豊臣秀吉が大坂城を築城し、豊臣政権の本拠地になりました。
1583年 大坂城の築城工事を開始。
秀吉は石山本願寺跡に大坂城の築城工事を開始。
秀吉は、安土城をモデルとしながらも、全ての面でそれを超えるような城造りを目指していきます。
1585年 天守が完成。。
華麗で優美な装飾を施したすばらしいものでした。当時の、豊臣政権は、まだまだ不安定だったこともあり、権力を知らしめる為に、象徴となる天守を早く完成させたかったのです。
天守完成後も断続的に城造りは行われていき、築城開始から15年のもの時間をかけて、難攻不落の巨城が築き上げていきました。
1598年 62歳で秀吉は亡くなる。
大阪城築城の指揮を執っていたのは、軍師として信頼を得ていた黒田官兵衛です。数回に分けて築城が行われていて、完成したのは秀吉がなくなった翌年でした。
完成した城を見ることなく亡くなってたなんて切ないですね。
そのこともあり、秀吉は晩年、伏見城で過ごしており、大坂城にはほとんどいなかったそうです。
プチまとめ2
でも、下層階級から天下統一するぐらいまで登りつめたその出世術は凄いとしか言いようが無いですね。その反面、浮気ばかりする秀吉に怒った妻である北政所(ねね)が、信長に書い手紙の返事には公式文書を意味する「天下布武」の朱印が押されていたので、きっと秀吉はあせったんじゃないのかな…。信長のねねに対する優しさな一面が垣間見えるそんなエピソードですね。
当時として珍しい恋愛結婚でした。二人の間には実子はいてなかですが養子をそだてたりきっと幸せだったんじゃないのかと、ねねがいたからここまで出世できたと個人的には思います内助の功ってやつですね。
秀吉と側室の淀殿との間には秀頼という息子がいました。秀吉の遺言に従って、息子の豊臣秀頼が、母の淀殿と共に、城主として大坂城に移ります。
豊臣秀吉死後の大阪城
秀頼は5歳の時に父親を亡くしそれから伏見城から大坂城に移りすみ、23歳で自害するまでずっと住んでいました。秀吉よりながく住んでいたので実質秀頼の城ですね。
幼少秀頼を五奉行五大老のメンバーによって支える集団運営体制へと移行していきます。が、政治抗争の過程この体制はほうかいし関ヶ原の戦いにむかっていくことになるのです。
1600年 関ヶ原の戦い
豊臣家の命運を託された石田三成が関ヶ原の戦いで敗れたため天下の実権は徳川家康へと移りました。
豊臣家は関ヶ原の合戦以降も、摂関家の家格に沿った順調に位階や官職の昇進をとげています。
毎年の年初めには平公家が大坂城に大勢で都より秀頼に参賀しており、朝廷からも秀吉の生前と同様の礼遇を受けていました。武家の世界においても、秀頼は家臣ではなく、徳川将軍家直参と同等に書類に記載されるなど、秀頼は徳川家と一定の対等性を維持していました。
1603年 江戸幕府誕生
家康は、征夷大将軍の官職を獲得して、独自の政権(江戸幕府)構築を始めます。秀頼は次第に天下人の座から外されてゆくことになってゆきました。同年7月、秀頼は、生前の秀吉の計らいで婚約していた徳川秀忠の娘・千姫(母は淀殿の妹であるお江)と結婚します。
国の中心江戸に移り、大坂は石高65万石の地方都市に、大坂城は豊臣秀頼という一大名の城になりそれ以降、秀頼は幕府に臣下の礼を尽くすようたびたび求められます。徳川家と良好な関係を築いていたのですが、方広寺鐘銘事件を口実に秀頼と決裂することになりました。
1614年 大坂冬の陣
1614年、江戸から大坂に3つの要求が示されたといわれています。
- 大坂から国替えすること
- 淀殿を人質として江戸に送ること
- 秀頼が参勤すること。
プライドをないがしろにされた秀頼と淀殿は到底要求を受け入れられないと、これを断りいくさえとむかっていくのです。
徳川家康らの大軍に攻められ、篭城戦を行います。
この時、豊臣家では、、後藤又兵衛ら浪人を雇い、真田幸村は真田丸で活躍などで掃討戦に近い状態となり、徳川軍は大被害を被って撤退。この被害を見て家康は大坂城を力攻めで落とすことを断念し、豊臣側との和平交渉を開始します。
・大阪城の外堀を埋める
・大坂城の「二の丸」「三の丸」の撤去
・豊臣側の領地の補償
・豊臣秀頼と淀の身の安全の保証
・豊臣家が雇った浪人たちの罪は問わない
この様な取り決めを決めたにも関わらず徳川側は「外堀」を埋めた後、「内堀」まで埋めたのです。
防衛拠点となる「二の丸」や「三の丸」、周囲の砦まで徹底的に破壊されてしまいます
大坂城は掘や砦のない「丸裸」の城になってしまいました。
秀頼は堀の再度構築しようとしましたが、これを講和条件の違反とみなされます。
1615年 大坂夏の陣
大坂夏の陣で、大阪城は陥落。
戦いの前、真田幸村は大将自らが戦場にあって、兵士を勢いつかせ、士気を高めないと勝てないと「秀頼」自身が出陣することを何度も要請しましたが、しかし淀と側近の家臣が断固として拒否しました。
5月7日、最終決戦となる天王寺・岡山の戦いが始まります。
大阪城内では徳川の内通者による放火で建物が燃え上がっており、天王寺での敗戦を知った秀頼は家臣に止められ出陣もできなかった。千姫らを城外に送り出して淀殿と秀頼の助命嘆願をしたが、到底受け入れられることはなっかたのです。
5月8日、淀殿と秀頼自害 これにより豊臣家が滅亡しました
2代目大阪城と徳川家
豊臣時代の大坂城の上に盛り土がなされ、秀忠は、徳川の威厳を示すために、 秀秀吉が作り上げた大坂城よりも立派にするため、石垣をより高くし、堀はより深くするように指示を出しました。
今ある石垣と堀はこの時造られたものです。
今も土の中には豊臣時代の石垣がねむっています。
1620年 徳川秀忠が大坂城の再築に着工
1626年 2代目大坂城の天守 完成
1629年 2代目大坂城 完成
1665年 落雷により大坂城の天守が焼失
その後 266年間、大坂城は天守を失ったままとなる
3代目大阪城は昭和になってから
1928年 当時の大阪市長氏が大阪城天守閣の復興を提案
1930年 復興工事が始まる昭和6年
1931年 3代目天守閣が完成
今あるのがこの時建てられた大阪城です。
1959年、地下約9.3mの位置から石垣と考えられる花崗岩が確認されたる
1984年「金蔵」東側の水道工事に伴う調査で、またもや地下石垣が見つかる
豊臣時代の大坂城が、土の中にあることが発見されたのが、結構最近の出来事だったんですね。
まとめ
大阪城にまつわる出来事簡単にまとめてみました。
歴史の授業で習った出来事がおおくあり、名だたる武将が登場する戦国時代は、大坂城落城ともに終わりを告げたんだなと思いました。一時代が終わり新たな時代の始まり。
大坂城、大阪城は今も昔も大阪の町のシンボル。
秀吉や秀頼が大坂城から見ていた景色と、現存大阪城からみる景色は全然違うけど何百年前におこった出来事を思いながら大阪の町を改めて眺めてみたいなと思います。
最近はたかいビルも増えて大阪の街を一望できる場所も多くありますけど大阪に来られたらぜひ大阪城へ。
また、大阪城の石垣には第2次世界大戦の時に落とされた爆弾のあとが残っている場所もあり時代とともに苦難を乗り越えてきたんだとおもいました。
ちなみに
と、いうものもやっているみたいなので興味がある方はぜひ。
大阪で生まれ育った自分としては、豊臣時代の石垣もみてみたいものです。
今回は大阪城中心にした歴史を振りかえってみて、お城というのは自分の権力を見せつける道具の一つだったり、戦いの拠点だったりと、現在は観光資源のひとつとして、時代とともに役割は変わってきましたがが後世に繋いでいかないといけないなと思いました。